東京大学大学院経済学研究科 経営教育研究センターMERC経営教育研究センター
MMRC 21世紀COEものづくり経営研究センター
センター長挨拶
センター長挨拶
ものづくりインストラクター育成への取組み
 「暗黙知の塊」ともいえる「ものづくりベテラン人材」が、定年退職によりどんどん現場を離れようとしている。このまま放置すれば、修復不可能な規模での「ものづくり知識」の消失が現実のものとなりかねない。
もちろん、企業もただ手をこまねいているわけではないが、現在取り組みが進みつつあるのは、多くの場合、企業内で「ベテランのものづくり知識」に対する需要供給をバランスさせようとする「クローズド」方式である。例えば、ベテランを「マイスター」などと呼ばれる専門職として処遇し、現役のうちに若手への技能伝承に専念してもらう、あるいは、定年を迎えたものづくりベテランを別会社で再雇用し、彼らに若手や非正規従業員、あるいは海外拠点の指導など、もっぱら社内での指導要請に対応してもらうのがクローズド式である。
東京大学ものづくり経営研究センターセンター長 東京大学 大学院経済研究科 教授 藤本隆宏
ものづくりインストラクター養成スクール
コーディネーター
東京大学ものづくり経営研究センター
センター長
東京大学大学院経済研究科教授 
藤本隆宏
クローズド型からオープン型へ、ベテラン人材の共有化
 そもそも20世紀後半の日本のものづくり企業、とりわけ大企業は、現場の中核人材を正規従業員として長期的に囲い込み、「多能工」の育成という形で企業特殊的な技能に依拠する「クローズド型」のものづくり人材育成を基本としてきた。近年、非正規従業員増加という一定の修正は加わったものの、その基本方針は21世紀初頭も変わっていない。そうした日本企業が、2007年問題に対しても、とりあえず 「クローズド 」なアプローチで対処しようと考えるのは、ある意味で自然な動きともいえよう。
 これに対し、我々東京大学経済学研究科が「21世紀COEものづくり経営研究センター」あるいは「産学連携製造中核人材育成プロジェクト」を中心に提案しているのは、より「オープン型」のアプローチである。すなわち、定年退職を控えた現場のベテランに対しては、従来の「クローズド型」ではなく、むしろ他の企業や他の業種でも現場管理・改善の指導が可能な「汎用的なものづくりインストラクター」になっていただく「オープン方式のシニア再教育プログラム」が必要ではないか、というのが我々の考えである。
 一般に、旋盤や溶接などの固有技術と違い、現場の生産性・品質・納期などの競争力向上を使命とする製造管理・技術管理のノウハウは、工場・企業・業種を超えて転用可能な汎用知識になりやすい。したがって、自社の現場からの指導要請が無いときは、他の企業や産業で現場指導をすればよい。これにより、インストラクター仕事の繁閑の波はある程度埋めることが出来るだろう。
 仮に「クローズド方式」でシニア人材流出問題に対処しようとした場合、一社の中でそうしたベテラン人材の供給とインストラクターの需要をバランスさせることは、よほどの巨大企業でない限り難しい。そうした人材需給のミスマッチは、日本全体のレベルでは大きなムダをもたらしかねない。むしろ、他社や他業種でも通用するような「つぶしのきく指導人材」として養成した方が、需給のバランスがとりやすく、本人の活躍の場も拡大し、ひいては産業界全体の現場能力向上への貢献も大きいと我々は考える。
 このように、ものづくりベテラン人材のうち、能力と意志のある人々が、しかるべき「オープン方式」の再教育を経て「シニア・インストラクター」として再生することの意義は大きい。本人の生き甲斐、年金の谷間の収入補完、現場の知識継承など、多くのプラスが今後の日本社会にもたらされるだろう。のみならず、彼らが一企業・一産業の枠を超えて大々的な知識移転を始めるならば、日本全体の生産性かさ上げと活力維持に大きく貢献することになろう。
先頭集団の牽引力頼みは限界に、競争不全部門の底上げを狙う
 そもそも、少子高齢化や人口減少の時代が目前となった今、日本の経済力を維持するためには、日本の産業全体の生産性向上がこれまで以上に重要になる。トヨタを先頭とする「競争貫徹産業」が頑張るだけではもはや限界だ。日本経済の半分以上と推定される「競争不全部門」が大幅な生産性向上を達成しない限り、より少ない労働力人口で経済力を保つことは難しいのである。
 21世紀初頭の日本企業の状況を、現場の実力や生産性を競う「マラソン」に喩えてみよう。そこでは、国際競争で揉まれ「能力構築競争」で自らのものづくり能力を鍛練してきた、製造業を中心とする「競争貫徹部門」の諸企業が先頭集団を形成し、その後ろから、規制・保護・談合ゆえにそうした鍛練の機会に恵まれなかった「競争不全部門」(公共・サービス・金融・建設などの大部分)がついてくるという展開が続いている。
 「競争不全部門」を規制撤廃・民営化を通じて競争環境に放り込む、いわゆる「構造改革」の手法が間違いとだはいわないが、それだけではなく、能力構築競争への対応力そのものを「競争貫徹産業」から移植するという、根本的な体質改善の取り組みも必要である。能力構築の雄であるトヨタ自動車系の生産革新担当者が近年、郵便局やスーパーや公共調達部門で現場指導を行っているのはその縮図ともいえるが、このような産業間知識移転が、今後は、現在の数十倍かそれ以上の規模で起こらねばならないだろう。
 今こそこうした問題に真剣に取り組むべき時ではないか。そして、ものづくりベテラン人材の多くが、オープン型のインストラクターとして再生し、出身企業の枠を超えて活躍することが、そうした知識移転に大いに貢献しうることは明らかだろう。かくして、定年後も現場に留まり大々的な知識移転を担える潜在的人材、すなわち長年日本経済を支えてきた「ものづくりベテラン人材」が大量退職する「2007年問題」は、やりようによっては、日本経済全体の「現場力かさ上げ」にとってチャンスにもなり得ると私は考える。
シニアインストラクターが「金の卵」になる日
 我々が提案している「ものづくりインストラクター育成プログラム」は、有効なものづくりインストラクター人材育成カリキュラムの開発・熟成を産学協同で行う「実証実験」と位置付けられる。そうした実験を通じて開発されたカリキュラムは、今後、様々な局面で、企業内・企業間・産業間のものづくり知識の移転に活用することが可能であろう。そのための知的なインフラ作りは、大学に加えて、当事者である企業、担当官庁、企業研修の専門機関、人材派遣業、等々を巻き込む産官学連携の取組みを必要とする。
 例えば、前述のようなインストラクター教育を受け、然るべき「修了認定」を受けたベテラン人材は、現場に戻って指導などの仕事を続け、60歳で定年となったら、会社あるいは地域その他が用意する「現場指導者派遣のための別会社」に転籍する、という仕組みがあり得る。シニア・インストラクターはそこに在籍しつつ、出身企業あるいは他社の要請にしたがって、現場指導あるいは指導人材育成の仕事に従事するのである。賃金支払いの体系などを工夫すれば、出身母体の企業は、大きな財政負担なしで、こうした「ものづくりインストラクター」ビジネスを展開することが出来るだろう。
 そうした「受け皿組織」を作る余裕の無い企業は、国や自治体あるいは人材育成・活用の専門機関が作る「インストラクター派遣組織」を利用する、という仕掛けも可能だろう。指導を要請する側、例えば地域の中小企業などにとっても、この仕組みなら比較的安価にこの指導サービスを得ることが出来るため、こうしたビジネスに対する潜在需要は大きいと思われる。現役時代の半額といった比較的安い歩合給でも生き生きと現場指導をしてくれる可能性のある「シニアインストラクター予備軍」は、会社から見れば「金の卵」とさえいえるかもしれない。
経済合理的なベテランへの教育投資
 とはいえ、ものづくりベテラン人材が「つぶしのきくインストラクター」として再生するためにはそのためには、ある程度体系的な教育をあらためて受ける必要がある。さもないと、いわば「暗黙知の塊」であるベテラン人材は、自分が所属する現場でしか指導出来ないと本人自身が思い込んでいるために、結局はインストラクター転向のきっかけを失い、定年とともに会社を去ることになる。こうした恐るべき人材のムダを避けるためには、ものづくり企業自体が真剣に、ベテラン人材を対象とした体系的な「インストラクター教育」に取り組む必要がある。そして大学としても、産学連携でこうした教育のカリキュラム開発を行うことで、一定の貢献ができるのではないかと考えるのである。
 会社によっては、「これからやめていく、既にくたびれかけたベテラン人材に教育投資をするのは無駄ではないか」との意見も聞かれる。しかし、この考え方は、幾つかの重大な見落としをしていないだろうか。まず、50歳台後半のベテランが精気を失っているように見えるとしても、それはまさに「60歳定年で先が見えた」ことから来る士気のダウンが原因である可能性が大きい。会社自体がそうした状況を生み出している可能性が大きいわけで、仮に60歳台のインストラクター化という見通しが開かれれば、この人たちの多くの士気は上がり、職場全体に大きなプラスをもたらすはずである。
 また、こうした「ベテラン教育投資はムダ」説は、おそらく、現在の指導人材・技能継承人材・知識移転人材の不足が生み出す大きな費用を適切にカウントしていない。例えば、海外拠点で継続的に指導をするインストラクターを確保できず、現役世代の技術者が海外現場を往復して応急処置的な対応を繰り返し、その費用を本社経費に付けている場合を想定するなら、その機会費用は膨大である。シニアインストラクターの教育投資・派遣費用をはるかに上回る費用が発生している可能性が大きい。現場における安全確保・管理水準の確保のために、一方でベテラン人材を定年退職で失いながら、他方で外部のコンサルタントに高額な費用を払っているケースも同様である。
 要するに、短期的な視野からものづくりベテラン人材への教育投資をしぶれば、長期的にはかえって高くつく可能性が大きいのである。ベテラン対象の「ものづくりインストラクター教育」の意義はそこにある。
 現在、退職期を迎えつつあるベテラン人材は、多くが1960年代に入社し、会社がまだ小さかったころにあれこれ経験を積んでいるため、知識の幅は若手をしのぐ傾向がある。つまり、インストラクター予備軍は質・量ともに十分といえる。この人材を活用できるならば、「2007年問題」は、「2007年チャンス」になり得るのである。